「竹刀」を考案した剣豪のおはなし

ただのチャンバラ小説ではない魅力

戦国時代に有名になった剣聖「上泉信綱」の物語を読んだ☟

 

真剣 新陰流を創った漢、上泉伊勢守信綱(上) (講談社文庫)

真剣 新陰流を創った漢、上泉伊勢守信綱(上) (講談社文庫)

 

 

 

真剣 新陰流を創った漢、上泉伊勢守信綱(下) (講談社文庫)

真剣 新陰流を創った漢、上泉伊勢守信綱(下) (講談社文庫)

 

 

 

 

戦国時代の剣士の話というとチャンバラ小説をイメージしてしまうが、この本はそうではない。と思う。これは日本人の精神性の話ではないかとMoominNは思うのであります。

 

竹刀を考案し、剣術を突き詰めた

現代剣道の「竹刀」と「型(構え方・打ち方)」の基を考案したのが、この本の主人公「上泉信綱」です。まあ、諸説緒論あるかと思いますが、MoominNはそう思ってる。

この時代では剣術の稽古というと木刀で殴りあう方法だったため、練習で大ケガ・死亡するという、練習の段階から弱肉強食な世界。信綱はケガ無く稽古ができるように「皮の袋に竹を割いた束を入れた竹刀の原型」を考案した。

また、現代剣道の型は『柳生新陰流』の要素を多く取り入れているといわれるが、その柳生新陰流の基になっている『新陰流』の祖が信綱である

 

剣の道は人間形成の道

この物語は、上泉信綱が『陰流』の祖「愛洲移香斎」に陰流の教えを請い、自らの流派新陰流を通して如何にして剣の道に生きたかを語っている。

愛洲移香斎からの教えの過程から、この物語がチャンバラではなく、日本人固有の精神性の基となる『道』の精神について語っているのではないかと感じる。

精神性は文化であり、考え方の根本から違っている場合が多い。

例えば、

  • 西洋では60年かかったものは60年の練習が必要だと考える。
  • 日本では60年かかったものは60年修行しなければ、それをできる人間になれないと考える。

という考え方の差が精神性に現れる。

つまり日本人は、技術(テクニック)を身につけるには、先ずは人格が必要だというのだ。この考え方は、モノづくりの世界における「職人」をイメージするとわかりやすいのではないかと思う。仕上がりや完成度は結果であって、そこに行きつく根本は「職人のこだわり」である。

武道がスポーツではない、スポーツであってはならないというのも『道』の精神の現れである。こうした素敵な精神性が、

  • 勝ち負けを競う(スポーツ)
  • 効率能率画一主義(マニュアル)

というように西洋的な思考になると『道』の精神が邪魔になる。だから後世に受け継がれないという残念な構図がみえてきてしまう。

この物語を通して、

剣術の鍛錬=自己修練=人間形成

という修行を体験しみてほしいと思うのであります。