善悪の基準を自分自身に問いかける

哲学書と思うことはなかれ。これが哲学だと思うべし。

まあ、哲学が好きな人は哲学書の棚からそれらしい本を抜き取って読むだろうと思う。でも、そもそも哲学っていうだけで、自分には合わないと喰わず嫌いをみせる人も多いと思うんですよ。

先日の『ビジネスマンの父から〜』とおなじようにMoominNにとってバイブル的な本が、ローマ皇帝が自分自身に語った自分の中にある哲学を記した本☟ 

 

マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)

マルクス・アウレリウス「自省録」 (講談社学術文庫)

 

 

 

西暦161年にローマ皇帝となったマルクスが、自分に向かって思念し、思索し、省察し、感受したもの。言い換えれば、自分の糞真面目な考え方について矛盾がないかを自分自身に問いかけるという本。二世紀という時代にこんな考え方をしていたのかと素直にビックリ。

 

自分の考え方の基準と照らし合せてみる

この本はマルクスの自分の自省本全12巻から構成されており、各巻で40〜50の「考え事」が書かれている。当時の価値観は全くわからないし、地名・人名をいわれてもさっぱりだ。でも、これが本当に翻訳者の意図が組み込まれていないのなら、価値観や物事の見方は現代と変わらない。「この考えがあるなら戦争しないだろうに・・・」ということを一瞬考えるが、理由があって戦争をするのだから、価値観や考え方は関係ないのだろう。

本の文章は、その糞真面目さが文章から出ているので若干読みにくい。なので、マルクスが黙々と自省するので、自分の考え方と照らし合わせるという作業をしたほうが読んでいて楽しいと思うんですよ。

 

内容抜粋(文章は少し読みやすく改編しています。)

  • 苦労があったとしても不満のない心。自分の仕事は自分の手を煩わして行う心構えを。他人にはお節介に走らぬ心を。最後に、ひとのいう悪口には耳を貸さない精神を。
  • 理性以外には一瞬たりとも目をくれぬ態度を。悲痛、子どもの死、永患い、どんな時も常に変わらない己をもつこと。また、説明する際に苛立たない心。
  • ものに驚愕仰天せず、いかなる際も、軽率に走ったり、困惑したり、あるいは愛想笑いをするかと思えば憤激し猜疑の眼を向けるということのない心を構え。なおまた、上品な冗談を言う才も。
  • 他人の心を察することをしないから不幸だという人は少ない。それに反して、自分の心の動きを常に気にしている人は、不幸になるであろう。
  • 欲情による罪は、憤怒による罪よりも重い。※何故か考えてみましょう
  • 死は自然の営みだと思え。自然の営みを恐れるなら、それは子どもそのものだ。
  • 自然が朽ち果てる様は、それぞれを切り取ってみると美しいものではないが、自然全体でみればその他の要素が、それらを飾り付ける手助けをして、かえって人の心を惹く。ということは、人が自然の有様に深い想いがあるなら、心楽しくないものは何一つないはずだ。
  • 自然の営みに想いを抱くということは、誰の心にもあるというものではなく、それ自体を本当に愛している人にのみ生じるものだ。
  • 嫌々行動すること、公共への関心を無くすこと、事前に調べもせずに結論をだすこと、罪悪感がありながら行動すること、はしてはならない。また、言い訳でもって自分の考えを正当化するな。落ち着きがなく、口数が多い者になるな。
  • 正気に戻れ、自分を取り戻せ。眠りから目覚め、悩み事は夢であったと思って、新鮮な視点で物事を見ろ。
  • 自分の心を愉快にしたいなら、他人の長所を見ろ。他人の長所から見える数々の良い面を一望することほど愉快なことはない。
  • 行動する毎に自問せよ。
  • 私がどんなに怒っても、彼らは変わることなく同じことをするだろうということを知れ。
  • 他人から非難された場合は、彼らがどんな人かを観察すれば、心配するに値しないと気づくだろう。しかし、彼らは本能的には友人であるのだから、あたたかく接してあげよう。
  • つまらない奴に説教したところで意味がない。なぜなら、その者をつまらない奴だと認めながら説教したところで相手に想いが伝わるわけがない。

 

実際の文章はもっと難解な言い回しをしている。何回か読んでようやく本当の意味がわかるような文章もある。こうしたところが哲学ぽい。一般ピープルにとっては暗号?のような文を読み解きながら、哲学に触れる機会となればと思うのであります。